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2011年 04月 28日
今うつで仕事を休んでいる。再発である。休み始めてもう二ヶ月になる。外はだんだん若葉が青々としてきていてこれが何故かこっちの神経に障る。障るというよりそれ見ることで意味なく気が沈む。青葉にとっては言いがかりにしか過ぎないことだろうが。…うう。、何とかならんかなあ、この気持ちの落ち具合。いかんよ。いかん。 グズグズ言わずに辛抱して休み続けるしかないんだろう。根気で向き合う病気だから。 きっ、と向きあうぞ。 /新久高 2010年 08月 03日
顔見知りの某校長が、実際私に向かって、「こら、CP、早く出さんか!」と、いった。その顔には、顔見知りの親しさはみじんも無く、怒りを含んで、罵っているような顔であった。 私はわざと皆に聞こえるように、大きな声で、こう答えた。「握り飯の後で裏門を見よ」と。それは、夕食を配った後に、裏門を開けるという暗示だったのである。 約束通りに、他のCPが、握り飯を配って帰った後に、裏門を開けておいたが、十分もたたないうちに、拘置所には鼠以外の生き物は一匹も見当たらなくなった。 私は急に「チムガタガタ」して、胸騒ぎを抑えることが出来なくなった。然し、それ以前にも、こんなことが二、三回あったことを知っていたので、大したことにはならないと、自分にいい聞かせながら、署に帰って宿直の翁長部長に、「異常なし」の報告をしてから、二人で、日刊新聞社時代の話等をして、わざと時間を稼いだ。 翌朝の交代時に全員の脱走の報告を出すと、さすがの久場署長もびっくりしてしまった。 久場署長は、竹を割ったような性格で、うるさ型ではあったが大胆な面もあった。私の報告を受けると、同時に、そのいきさつを察してしまって、右手を左右に大きく振りながら、「アビランケ、アビランケ」と、いっただけで、この亊件は、一件落着となった。 ----続く --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 08月 01日
警察署長は、久場景善氏で、署員は百名位いたのではないかと思うが、その中には,米軍が山中や,途中で捕えてきて,無理矢理に巡査にしたのもいて、車夫、馬車引き、ナービナクー、サンジンソー等,多種多様の人物が揃っていた。それに、最後の六十一才組が加わったので、その珍ちんたる風景はまさに絶品であった。 そして、背中に[PWU]と大書きした、軍払い下げの作業着を着せられ、「CP」の腕章を巻き、「P」の印の入った鉄かぶとを被って,シビリアン・ポリスマンになりすますことが出来た。 当時は,今日のように、カメラを持っている人がいなかったからよいものの、もし,写真でもとられていたら、それこそ大変なことで、子供や孫達に,肩身の狭い思いをさせたであろうと思う。 或る日、『住民拘置所』の監視に廻されたことがあるが、この『住民拘置所』の入り口に、こんな看板がぶら下がっていた。「コノモノタチハ、ミンナノタメニツクラレタキソクニソムイテ、ワルイコトヲシタモノデアル」。 この拘置所は、警察署と、通路一つへだてたところにあったが、周囲は金網を張り巡らし、壁のない天幕が張られているだけだった。中に居る者を皆に見せるために、わざと壁を取り除いていたのである。 ここに入っている人達は、決して「キソクニソムイテ、ワルイコトヲシタモノ」ではなかった。その九割以上が、食料探しのために越境して、MPに捕えられた人達であった。 ----続く --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 07月 31日
第一、第二の試験場を、難なく突破して、愈々第三の首実検の難問に差しかかった。見ると米軍の憲兵が、通訳の池原義加奈氏を通じて、色々と質問をしていた。日本兵が紛れ込んでいないか。六十才以下のものが、年齢を偽ってはいないか、という二点だけを確かめていた。 その日に備えて髭も数日前から剃らず、長髪も手入れしていなかったので、替え玉登録は、見破られずに済むことが出来た。池原通訳は、彼が那覇無尽にいた頃から、よく知っていたので、日本兵ではないということも、彼が証明してくれた。 こうして、最後の口答試問みたいなことをするところまでやってきた。ここの通訳は、日系二世であったが、風采の上がらない、まるで人間のなり損ないみたいな醜男であった。 階級はよく分からなかったが、偉そうな奴が二、三名いて、その中の一人が、「何の目的で巡査になるのか」と聞いてきた。それが第一問だったのである。別にそれを考えていたわけではなかったが、咄嗟の思いつきで、『巡査を取り締まりたい』と答えた。 更にその理由を聞くので、ここぞとばかりに、まくしたててやった。『三日に一度の配給米は、たったの三百グラムである。生きるためには、自分の村に帰って、甘藷の葉も、パパイヤの葉も取ってこなければならない筈だ。それなのに、巡査が途中でこれを取り上げている!』といってやった。米軍の連中は通訳を交えて、何かぐずぐず話し合っていたが、そのうちに、一人が立ち上がってきて、突然わたしの肩をたたきながら、「ナイス、ポリスマン、オーケー」といって、試験用紙に、ミミズみたいな横文字でサインしてくれた。 ----続く --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 05月 26日
このカンパンの署長をしていたのは、私の親しい、元警部補の、松本永吉氏であったので、ひそかに彼を呼び出して、カンパン入りを免れる方法について打ち合わせをなした。 彼がいうには、住民登録(男子は全て登録せねばならなかった)の際に、六十一才で登録することができれば、カンパンに入らなくてもよいが、しかしそれが発覚されると、銃殺は免れないとのことであった。 カンパンに押し込まれて強盗作業を強制されるよりは、万一、発覚された場合、銃殺されるようなことがあっても仕方がないと思い、六十五才になる新城さんを替え玉にして、六十一才の兼次佐一として登録を済ませた。 替え玉を使って、六十一才の兼次佐一になりすましていたものの、当時、私は三十六才であったから、うかうかと外出もできず、銃殺の幻想におびえているときに、耳よりなニュースが舞い込んできた。 田井等警察で、はじめて、試験制による巡査を採用するが、応募資格は、六十一才以上の男子になっているとのことであった。 早速、義弟の神田君(替え玉登録者)と共に応募することにした。そして、試験場に行って見ると、その殆んどが、替え玉登録の六十一才組であった。四十才そこそこの竹内和三郎氏も交じっていた。 ----続く --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 04月 29日
序 収容所内にカンパンという施設があったが、十五才から六十才までの男子を、強制的に収容して、軍労務に従事させているところであった。 周囲は厳重な金網が張り巡らされ、要所々に監視台があって、米兵が昼夜にわたって監視を続け、脱走者に対しては、即座に射殺していた。 田井等地区のカンパンには、一万とも、二万ともいわれる収容者がいたが、これらの者は、米兵の引率のもとに、戦災を免れた民家を、片端から倒壊して、その材料を、米軍施設に運搬するのがその任務であった。米国の公認によって、白昼堂々と、強盗作業をなしていたのである。 収容地区における、六十才以下の男子は、好むと好まざるとに関わらず、総べてここに入れられるのであった。但し、米軍が認めた機関の役人と、警察官だけは例外だった。 私も収容所地区に入ってきた以上は、勿論、このカンパン(別名-金鋼)に行かなければならない運命にあった。 ----続く --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 04月 25日
八 ----『越境者』--という、収容所を抜け出して、桂の葉っぱなどを拾いにきている一群がいた。私たちはその中にまぎれ込む、というかたちをとり、夫婦別々に、二人の子供を背負い、鍋や釜等の所帯道具を持てるだけ持って、収容地域へと入った。 その三日前に、義弟の神田君が、既に伊差川方の収容区へ入っていたので、そこを訪ねて同居をさせてもらおうと考えていたのだが、神田君のいた家には、もう百人近い数の人がいて、軒下や、物置小屋、物干し場まで占領していたので、私らが入り込む場所はなかった。仕方なく、川上の平良千代蔵さんに頼んで、彼の知人の牛小屋に入れてもらうことにした。 この牛小屋には、まだ、生々しい牛糞が残っていたが、それでも当時の状態からすれば、きわめて良いほうで、--最後に降りてきては、小屋の中に入れた--といって周囲の人達から、うらやましがられたほどであった。 餓え死にからのがれるために、収容所にきたのであるが、収容所における食糧の配給も、二日か三日おきに、二合から三合のお米が支給されるだけで、飢えをしのぐことすらできなかった。 役職に就いている者や、カンパン(-十五才から六十才までの男子を、強制的に収容して、米軍の軍労務に従事させているところ-)に入っている労働者には、必要以上の特配が与えられていた。それが闇物資となって市中に流れていたため、一般の人々は現金や衣類と交換してその闇物資を手に入れ、かろうじて命をつないでいた。 しかし、それにも限度があった。収容所地域に指定されていた、羽地村から、外の町村に越境して、甘藷の葉っぱや、野生の雑草を拾い集めてこなければならなかったが、越境は厳禁されていたので、MPや、CPに見つかって、住民拘置所に入れられたり、拾い集めてきた、雑草まで取り上げられる始末であった。 こうして住民は精神的不安と、極度の疲労に陥り、マラリヤと、赤痢におかされ、それに、栄養失調も加わって、毎日のように相当数の死者を出していった。 テントの下からも、小屋の中からも、病人の呻吟するうめきが、道路を通っていても手に取るように聞こえるのであった。 栄養失調のために、母の乳が枯れていることを告げているかのように、火の付いたように泣き叫ぶ幼児の声は、車の騒音を思わせるものがあった。 夫を奪われ、子供には、先立たれて、身の寄るべを失った老人も少なくなかったが、この老人たちを遇するにあたっての、周囲の人情も、すっかり、干からびてしまっていた。そして、遂に、発狂して、羽地国民学校跡の「狂人収容所」に収容されていた人の数は、当時、私が数えただけでも百名を超えていた。 川上橋のたもとに、砂糖樽をつくっていたという、古ぼけた瓦葺きの家があったが、そこに、数十名の人が雑居していた。或る夜、正服正帽の米憲兵がやってきて、一人の女性を拉致しようとした。いっしょにいた夫が、これを阻止しようとして、射殺されたという話をきかされた。 田井等の大通りから、死んで間もない女性の頭を、棒の先に突き刺し、まだ、つやつやとした黒髪をなびかせながら、大声をあげて笑う一団を乗せつつ疾走していく、トラックがあった。 そのトラックは二十世紀文明の先端をいくといわれる米国の軍用車であり、トラックの上には米国の軍人が乗っていた。彼らは後に、沖縄戦戦闘記を書いたと思うが、果して、あの時の状況をどのように表現したであろう。 ------了 --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 04月 22日
七 ----米軍の捜索は日増しに激しくなって、住民も次々に連行され、伊豆味の山中でも、残ったものは極くわずかしかいなかった。しかしそれでも私は、最後まで残るつもりで、捜索隊の裏をかきながら、山から山へと逃げ回っていた。上之当の山は、米兵も余りきたことがないというので、伊良波さんの裏山に、親子四人だけで一日を過ごしたことがあった。運悪くもその日は、そこに捜索隊が現れ、名渡山のウンメーさんをはじめ、周囲にかくれていた二、三十人のうちの大半が捕えられ、私たちのかくれていた山のすぐ下の道に集まっていた。 ここで子供を泣かせては大変だと思って、長女には無理矢理に妻の乳口をふくませ、長男には、黒砂糖をしゃぶらせながら、二人共、息を殺して、捜索隊の去るのを待った。 丁度そのときであった。上の方から、サラサラと大きな音を立てながら、樽がころぶようにころころと転げ込んできたのは、七十才を過ぎた前川のおばあさんであった。 このおばあさんは、米兵の声をきいて腰を抜かしたらしく、口さえきくことができなくなっていた。ゆっくり介抱もしておれないので、水を与えて気を取り戻させてから、私達は反対側の山道から危うく逃げたのであるが、後で、おばあさんも、無事に難を避けたことをきいてほっとした。 桶底という谷間に、ただ一軒だけあった佐久川という家は、大通りからも相等の距離があったので、いつでも、二、三十人の避難民が集まっていた。 雨の降る日であったが、その日は、米兵もやってこないだろうといって、いつもより早く山から帰っていた。 皆が夕飯の支度に大あわてしているときに、誰かが「チューンドウ(来るぞー)」といって米兵がやってくることを知らせた。 この「チューンドウ」の声をきいた避難民は、竹穴から蟻がはい出るように、いっせいに家を飛び出して、山の方に向かって走り出した。 私も無意識のうちに走り出したのであるが、気がついたときには、だれよりも真っ先に山の麓まできていた。そして後ろを振り向いてみると、右手で長女を抱きかかえ、左手で長男の手を引いてくる妻の姿を見た。 このときはじめて我にかえり、急いで引き返していったが、妻は真っ青な顔をして、息をするのも苦しそうであった。それでも、元気をつけながら、山の上までいったときに、米兵でなく、日本兵であったことが分ったのであるが、それをきいたとたんに、安心の余り彼女は泣き出してしまった。 その夜、私は、一人で色々なことを考えた。こうして、死ぬ程の苦しい思いをしながら逃げ回っているのは、妻子のことを思ったからではなかったろうか。それなのに、いざとなると、その妻子のことを忘れてしまって、一人で真っ先に逃げたというのはいったいどういうことだろうか。日頃は、子ぼんのうだといって周囲の評判になっている程の自分でありながら、何という卑怯なことをしただろうか。自分には親の、また、夫としての資格さえなくなったのではないだろうかと後悔した。 しかし、いくら後悔はしてみても、今後このような場面に直面したときに、再びこんなことはないという自信を持つことはできなかった。それは本能的な行為であったと思ったからである。 同時に、子に対する、母性愛と、父性愛に、本質的な相違のあることも分った。それまで逃げ回っていたのも、結局は、自分が危険から免れるための手段であったように思われるようになった。 いつ、また、どこでこんな目にあうかも知れないし、その場合、例え、自分だけは逃げることができても、山の中で、妻子だけが捕われたら、それこそ、デマ以上の危険にあわされるかも知れないと思い、機会を見て、収容所に行こうと決心をした。 それにまた、食べ物も完全に無くなっていたし、子供も栄養失調になりかけて、手足もやせ細り、色も青ざめて、泣き声まで元気がなくなっていた。 さきに山を降り、収容所に出ていった義父が二日おき位に持ってきてくれる食糧も、親子四人の飢えをしのぐには、とうてい間に合わなかった。また、いくらか山に残っていた人達も、既に収容所に行ってしまい、人影も少ない山中に住むこともできなくなっていた。 米軍上陸から五ヶ月目、その間、山から山、谷から谷を転々として逃げ隠れ、飢えと恐怖におののき、安閑として暮らした日は一日もなかった。 一ヶ月経ち、二ヶ月が過ぎる頃から、一般の住民をはじめ、日本軍の敗残兵まで、自ら進んで、米軍の設けた住民収容所に向かって、山から出ていったが、 ![]() それでも、我々は収容所入りを嫌い、危険をおかしながら逃げ回っていた。 しかし、そのうちに更に一人去り、二人去りして、八月の半ば頃になると、我が家の親子四人だけが、山中生活をしなければならなくなった。その上に、栄養失調になりかけた子供達の生命にも危険が感じられるようになったので、遂に気折れ、食尽きて、収容所に降りたのであるが、それは、八月十九日の夜であった。 ----続く --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 04月 21日
六 ----こんな生活が五ヶ月間も続いたのであるが、その間には色々な悲劇もあれば喜劇もあった。 ある日、幼い時によく草刈に行っていた、ヤマチナーという竹林の中に、数家族のものがかくれていたが、その林の百メートル程下の方から、米兵の捜索隊が通っていた。その時、長女の絹枝が急に大きな声で泣き出してしまった。周囲の人に迷惑をかけてはならないと思って、親子四人はそこから離れて別の山に移った。 別のところに行っても泣き止まないので、私も遂に頭に来て、子供を泣かすなといって妻を怒鳴りつけた。 すると妻は、むっとなって、泣き止まないままの長女を背負ってどこかへ出ていってしまった。十分経っても、二十分過ぎても帰ってこないので心配になり、長男を背に負って探しに出掛けたが、いくら探しても見つけることが出来なかった。 それまでは一度もこんなことは無かったが、子どもが泣くために、周囲の人からもうるさがられ、味方であるべき私にまで怒られたので、遂に、やけを起こして、捕虜になるために出ていったのではないかと思うと、もう、居ても立ってもいられなくなった。 裏側の石穴の中に隠れていた叔父のところまで行って様子をきくと、彼女は、泣きじゃくる子供を負うたまま、口もきかずに下の方に下りていったとのことであった。 下の方には自分達が借りていた家があったが、そこは昼間は、米兵の往来が激しかったので、益々心配になり、早く呼び戻そうと思って、裏山を遠回りしていくと、子供が泣き止んだのでもあろうが、妻が着替えのふろしき包みをもって佐久川の方に向いて帰るのを見つけた。 私はそれを見てはじめて安心したので、なに食わん顔して、反対方向から先に帰っていたが、妻は堂々と本通りを通って帰ってきた。 妻がいうには、米兵に見つかったら捕虜になるつもりであったとのことであった。これを聞いて、女というのはいざとなれば恐ろしい勇気が出るものだと思った。そして、それからの後は、いくら子供が泣いても文句をいわないことにしていた。 ----続く --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 04月 19日
五 ----我々がいた避難地は、いつのまにか千名近い避難民が集まってきて、昭和村という村まで出来上がり、村長には又吉康和氏(後那覇市長)がなっていた。 最初のうちは、最も安全なところだと思っていたが、こうなると、一番危険な場所になってしまった。 遠からずして、襲撃されるか、さもなければ、一網打尽に捕虜収容場に連行されるだろうと思ったので、我々家族と荻堂さんの家族と二家族だけで、そこから更に一キロ程度奥の山中に引越して行った。 それから十日後の、四月二十三日に、昭和村に残っていた避難民は、一人残らず田井等の収容所に連行されていった。 私達は、連行は免れたものの、避難後すでに一ヶ月にもなろうとしていたので、貯えてあった避難用の食糧もすっかり食い果たしてしまい、今度は食糧に攻められるようになった。 そのために、どうしても伊豆味に帰らなければならなかった。しかし伊豆味に帰ったからといって、別に食糧の目当てがあるわけではなかったが、 伊豆味にはまだ相当数の字民が残っていたので、そこへ行けばなんとかなるだろうと思った。 その頃、米軍は隊を組んで、部落という部落を片っ端から荒らし廻り、住民を見付け次第、老若男女の別なく、否応なしに収容所に連行していた。 米兵に発見される危険度からすれば、羽地山の方が、はるかに安全であったが、食糧無しではどうすることもできなかったので、危険を承知の上で、伊豆味に帰ったのであるが、その後は、一定の居場所も決めずに、甲の家、乙の家、を転々として米兵に見つけられる危険を少なくしていた。 といっても、一日中民家にかくれているわけにはいかなかった。いつ、どこから米兵がやってくるかも分からないので、朝は未明のうちに山奥へもぐり込み、日暮れを待って帰るのであったが、それから親戚や知人を訪ねていくらかづつの食糧を分けてもらっていた。 続く- --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 04月 19日
四 ----米軍の上陸前に、我々は既に羽地の古我山に避難していたので、上陸の時には、それほどの動揺はきたさなかった。 しかし宇土部隊の敗走を聞いたときには正直のところ皆びっくりしてしまった。 宇土部隊の敗走によって本部半島は完全に米軍の掌中に陥り、逃げおくれた宇土部隊や、今帰仁の運天港に集結していた日本海軍の敗残兵が住民の中にまぎれ込むようになってからは、米軍上陸当時とは異なった不安と動揺が起こるようになった。 こういう不安なときには、色々な流言飛語は付きものであるが、その流言飛語にも一々気を使うようになったのである。 日本海軍の敗残兵が、どこそこの誰かれを殺したとか、誰かれを探し廻っているなどという噂が忽ちのうちに拡がったのであるが、それにも増して人心を大きく動揺させたのは、米軍の行動についてのデマであった。 男に対しては見付け次第射殺し、婦女子は、素っ裸にして辱めるというのであった。その現場を見たというのも出てくるようになった。 ![]() こんなデマに対し、まさかとは思いながらも、反面また、或いはという不安も押さえることができず、南洋群島における玉砕のニュースを知ったときには、愚かなことだと思っていたが、それがやがて、自分の身の上にも降りかかってきそうな気がしてならなかった。 一日中膝から離れようとしない長男をしっかりと抱きしめながら、蝋燭のうすあかりを通して妻の姿を見ると、彼女も同じことを考えていたのか、六ヶ月になったばかりの長女に、乳房をあてがいながら、放心したような顔つきで、蝋燭の炎を見つめているだけであった。 当時私は既に三十有余才、死ななければいけない運命とあらば、致しかたもないことではあったが、二十三才の妻と、西も東も分からない、いたいけな子供達二人まで道連れにして死んでいくということなどは、考えるだけでも許されない恐ろしいことであった。 そこで私は、さらに覚悟をしなければならなかった。例え、どのような事態になっても、決して死を選んではならないという決心をかためたのである。 続く- --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 04月 18日
三 ----米軍上陸当時のことを書く前に、沖縄における彼我の戦力と、その終末を先に書いて見よう。米軍は、最後の洋上の戦場を沖縄に求めて兵力を結集し、第五艦隊司令長官スプルアンス指揮下の、総兵力五十四万八千人、軍艦三十八隻、補助艦艇千百三十九隻、それに数千の上陸用舟艇という、まさに雲霞の大軍をもって、遂に四月一日、ケラマ列島にその姿を現した。 これに対し日本軍は、牛島満中将指揮下の陸軍五万、海軍陸戦隊一万、現地義勇軍四万という劣勢であった。 この戦争に勝つためには、日本軍一人をもって米軍四、五人を殺さなければならなかったのである。然し、敵は進撃に次ぐ進撃をもって、比島、硫黄島、南洋群島攻略の余勢をかり、足り満ちた火器と空軍をもっての攻撃であったのに反し、わが方は、兵器と食料に欠乏し、栄養失調になりかけた日本最後の犠牲集団であった。 結局は、敵側の戦死者五万人に対し、わが方は、十五万人の住民死傷者を加えると二十五万の犠牲者を出し、敵一人と日本軍五人が刺し違ったことになり、上陸前に豪語していた水際作戦は水泡になった。 四月五日に世富慶、翌六日に屋部に上陸した敵は、第三中学校(名護高校)に戦闘指揮所を設置して本部半島の包囲作戦に移った。 四月九日、屋部村を経て、渡久地に向かう左翼部隊と、今帰仁を経て渡久地に廻る右翼部隊が、同時に進行をはじめ、十三日には、名護から伊豆味に向かった中央部隊と合流して、いよいよここに彼我の肉薄戦が展開したのである。 然し、宇土部隊は、すでに戦意を失い、部隊長の如きは陣地近くのバスー敷に、料理屋の女を囲い、断末魔の快楽にうつつを抜かし、敵と戦う意志は毛頭なかった。 かねてから後方連絡以外には用いないという約束のもとに編成した県立第三中学校の学生軍「鉄血勤皇隊」を、敵の全面に出して戦わせ、そのすきに、部隊がタニュー岳に向かって敗走したのは四月十七日の夕方であった。「鉄血勤皇隊」の第三中学生は、白線の学生帽に、金釦の制服姿で、同校配属将校、谷口中尉の指揮下に奮戦敢闘して、敵の進撃を拒んだのであるが、宇土部隊の裏切り行為にふんがいして、自ら解散し、自由行動をとるようになった。 ![]() 一ヶ月前に、避難所のことで口論して別れた座覇君は、宇土部隊が敗走したそのときに、水之当の山で敵弾に見舞われ、哀れにもその最後を遂げたのであった。 続く- --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 04月 14日
二 ----愈々上陸疑いなしと見た住民は、それに備えて、空襲を免れるための避難所から、上陸に備えての避難地を求めて、右往左往するようになった。 十人集まれば十人共見解が異なり、避難地を決めるまでにはなかなか骨が折れた。部隊近くを主張する者、部隊から遠ざかるべきだというもの、どこへかくれても、結局同じことだといって、すっかりあきらめて居る者等もいてどうしても一致点を見出すことができなかった。 結局部隊を信頼する者が多くなり、上陸の際には、宇土部隊の近くに行くという者が大多数を占めたので、我々は、数家族が一緒になって、部隊から遠く離れた羽地の古我山に避難小屋を造ることになった。 此の話を伝え聞いた、親友の座覇政俊君が、自分で作って軍に供出していた、ふきのつくだにを持ってやってきた。そして彼がいうには、部隊に付いておれば最後まで戦ってくれるから安心だといい、私も是非彼と一緒に行動を共にせよということであった。 いくら私がその考えを捨てて、彼も部隊をはなれ、我々と行動を共にすべきだといっても、一徹者の彼は最後まで自分の主張をまげなかった。 彼は二十二、三の頃からの同士であり、現に二人とも町会に議席を有し、行動を共にしていたが、二人とも自我の強い点においては、人後に落ちなかったために、最後のどたん場になってもそれが禍して、とうとう別々に行動するようになった。 闇買いをしてあった一升あまりの泡盛を、午後の八時頃から飲みはじめて、翌朝の四時頃までの間に、避難先についての口論をしながら、ぐてんぐてんになって帰ったのであるが、そのときにお互いに、生き残ろうと交わした握手が彼との最後の別れとなった。 続く- --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 03月 22日
一 ----いくどもくりかえすようであるが、戦局がどんなに悪くなろうともなお、日本の勝利を信じているものが絶対的に多かった。 とくに沖縄に於いては、最後の手段として、米軍を沖縄に引き寄せ、水際作戦を用いて皆殺しにする、いわゆる誘導作戦術を計画しているといい、敵は、この作戦に引っかかりつつあるといって、軍部が宣伝していたので、自分も半ばそれを信頼していた。 ところが制空権は完全に敵に掌握されて、B-29と称する恐ろしい爆撃機が毎日のようにやって来て、海岸に面した部落を中部・北部の別なく、くりかえしがえしたたきつけていたので、これに対してだれいうともなく、定期便の襲来というようになっていた。 この定期便の襲来を見て、いよいよ上陸が確定的なものと気づくようになったのは、昭和二十年の二月の末頃であった。 那覇近郊や中部一帯に住んでいる住民に対し、南部や北部への疎開が強要されたのもその頃であった。しかしそれは、空襲や艦砲射撃による犠牲を少なくするための手段であって、敵の上陸を想定しての疎開命令ではなかった。 さきにも述べたように、竹槍訓練は、敵の上陸に備えてのものであったが、敵兵上陸の場合における避難方法については、何ら示されていなかった。 一滴の水も敵にあたえてはならない。一木一草といえど敵の手にゆだねてはならない。生命も財産も、持てるすべてを天皇に奉還して、最後には軍民の別を問わず、生命を絶つべきだという、いわゆる焼土戦術が強いられているだけであった。 しかし県民は、あくまで生き残ろうという意欲を失っていなかった。これは、沖縄県民だけがもっていた意欲ではなく、人間の本能であった。人間だけの本能でもなく、生あるすべてのものが有している本能であったのである。 続く- --著作権あり 無断転載・転用を禁じます-- 出典-『-真実の落書-』 兼次 佐一 著 /掲載者/新久高 2010年 03月 22日
理念ばかりが先行しているというか…、理念ともなんともつかぬがごとしの、為にする論、騒がし話、気の抜け話が横行している2010年現在の沖縄問題。正直、棚上げにしてきた期間があまりに長すぎたために出来しているのだろうこの迷走愚歩にキリモミ飛行。ちょっと呆然となってしまう。もう少し血の通ったエピソードをあらゆる人間があらゆる角度でこの事態に向かって投入してみる以外に、ろくな着陸など到底望めないように思う。これで墜落しきってしまったら…一貫の終わりだよ。 僕のこのブログは自分自身の日々のよしなし事などを徒然に記して行くのが本来の趣旨だが、まあ言えば、ある側面、僕の言論の前線基地でもある(…物騒な言い方ではあるけれど)。ならばここを利用、活用し、僕自身、時間の都合がつく限り、ひとつふたつの沖縄人家庭の血の通ったといえるだろう話を少しづつでも拾い上げ、ここで披露していこうかと考え始めている。また、そうすることで、多くの沖縄問題に関心を寄せる人々といい意味で繋がれることになれれば、それはそれで何よりだし、幸いだと思っている。なんといっても僕自身にとって大切な勉強になる。 僕の母方の祖父は亡くなる二十二年くらい前に一冊本を書いた。いわゆる自分史という性質の本。我田引水気味だが、この祖父の残してくれた本は僕らの行く末、これから先、へのなにか大きな参考になってくれるように思っている。辛く厳しい時代を生きるために戦ってきた祖父達の来し方を紐解いていくことで、今の混迷した安全保障の考え、平和への考え、戦争への考え、沖縄問題、差別問題等々への誘導灯の役割を果たす一助に多少なりともなれるとしたら、一沖縄出身者として、本当に幸せだ。祖父の遺した分厚い本のページを繰り、そこからエピソードを一つ一つピックアップしていくことに苦などない。むしろ僕は、孫として、そして一人の沖縄人として、この行いへの挑戦を--嬉しい--と感じるくらいの気持ちで挑んでいく。 /新久高 Tags:#徐々にアップしていきます
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Toco-nut Love 新久高スケッチブック Twitterアカウント--kudaka1s 久高Twilog 世に倦む日日 沖縄空手 現代空手道研究会 清水道場-日本空手協会- 『爪日記-』----怪我等で剥がした爪を早く確実に治すために作っています 一、人格完成に努むること。 二、誠の道を守ること。 三、努力の精神を養うこと。 四、礼儀を重んずること。 五、血気の勇をいましむる事。 ![]() 最新のトラックバック
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